◎  本気での信心の稽古       信心に伴うおかげ。  ほんとに信心を習う。。。

昭和四十四年六月九日 夜の御理解


 共励殿であしたの琴の稽古をさして頂いておるのを、あんまり覚えんから、もう先生の方が、もうもやもやしてから、すと、習う方も、もう途切れてしまってから、かえって覚えんようになってしまう。もういつもここと共励殿とが、もう何や、こう続いとりますから、御祈念が出来んごたるですけれども、もうほんとに信心でもね、神様が信心を信心をと言うて下さっても、いっこ信心を覚えようとしないなら、神様はやっぱしおんなじ思いで歯痒い思いをなさることだろうと思うですよね。ほらもう、人間でもあげんですから、もう神様もそうだろうと思う。
 だからね、おかげを受けられんのはね、もう神様がもやもやしてから、もうお気付し続けにしてござると思わにゃいかんですよ。ね、ですからね、ほんとにあのー、楽しゅう嬉しゅう信心が出来るおかげを頂いて、ね、おかげも頂かんならんけれども、ね、信心を分かる。どうぞ信心をしておかげを受けてくれよ、とおっしゃるのじゃから、ほんとに信心をしておかげを受けてくれよ、とおっしゃる。お参りをして来て、おかげを受けてくれよ、とおっしゃってないのですから、ね、信心を覚えさしてもろうて、その信心におかげが伴うてくるようなおかげをね、頂かせて頂く為に焦点を置かなきゃならん。
 もうほんとに願うても願うてもおかげにならんと、いうふうな時には神様が、そーりゃもやもやしなさる時と思うてね、ひとつ本気で信心が分からして頂いて有り難いと、いうようになってくるとです楽しい。教える方も楽しい。習う者も楽しい。ということになってくるのじゃなかろうかと思う。私しゃもう、琴の稽古が始まると、それをいつも思うんですよね。とにかく先生の方もちった気が短こうてやるやるやってですから、どうかと思いますけれども、ほんとに教える者、教えられる者が一つになってですね、そこに楽しゅう嬉しゅう稽古出来るようなおかげ頂くために本気で信心を目指さなきゃいけないということですよね、どうぞ